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第2章 1945-1962

復興から高度成長

1947(昭和22)年、焼け残りの100㎡ばかりの建物とわずか12名によって、創業以来の伝統製品である「電球」が復活する。同年8月にはセレン整流体やホーロー引き抵抗器などをそろえた。その後、高度経済成長とともに発展した自動車産業の波に乗るように、当社が1957(昭和32)年4月に販売した「メタルバックシールドビーム」は驚くべき勢いで市場に受け入れられた。電子機器製品では、セレン光電池使用の露出計が画期的な製品としてヒットするなど、1950年代の当社は急速な勢いで発展拡大をとげた。1960(昭和35)年12月に、現在ものづくりの総本山となっている秦野製作所を開設し、1962(昭和37)年2月には東京証券取引所1部上場を果たしたのであった。

CHRONOLOGY

  • 1945昭和20
    • 10月

      「北野電気工業株式会社」が再発足

    • 11月

      電気コンロ、電気こたつの製造販売を開始

    再発足の場所となった春風寮の前で

  • 1946昭和21
    • 1月

      セレン整流板の製造を再開

      戦後も製造を続けたセレン整流体

    • 6月

      投げ込み湯沸器を発売

      「新円かせぎ」を目論んだ投げ込み湯沸器

    • 7月

      「スタンレーの四大切」を公布

    • 10月

      電気醱酵器を発売

    • 戦後も製造を続けたセレン整流体

    • 「新円かせぎ」を目論んだ投げ込み湯沸器

  • 1947昭和22
    • 3月

      電球製造を再開

    • 10月

      停電の頻発に対処して充電ランプを発売

  • 1948昭和23
    • 2月

      輸出を再開

    • -

      電圧調整器、電気実験具を発売

    • -

      事務機用電源装置を開発

  • 1949昭和24
    • 11月

      社名を「スタンレー電気株式会社」に復元

    スタンレー電気への復帰

     終戦によって、いったん会社の解散式を行ったものの、元従業員からの「会社再建を!」の声に応じる形で、1945(昭和20)年10月には再発足式を中目黒の春風寮で挙行して再建の道を歩み出した。そして、1949(昭和24)年11月1日、ついに「スタンレー電気」の社名を復帰させ、目黒工場を増強して自動車電球の輸出を再開する。
     等々力工場では家庭用電熱製品を製造する一方で、セレン整流体、ホーロー引き抵抗器などの生産に着手した。特にセレン整流体では、放送や通信の分野で新たな製品を開発する。また電源装置分野への参入を進め、通信機・電気機器メーカーへと取引先を広げ、自動車電球と並ぶ電子機器事業の基盤が固まっていく。

    社名をスタンレー電気に復元

  • 1951昭和26
    • 12月

      放送機用電源装置を開発

    • キャラバンを開始(得意先を自動車で訪問)

  • 1952昭和27
    • 1月

      シールドビーム・自動車照明器具の製造に着手

    • 11月

      ガラス反射式シールドビーム(分解可能型)を発売

    • -

      シリコン抵抗器を発売

  • 1953昭和28
    • 4月

      整流器用変圧器を開発

    • 10月

      小型電球のJIS表示が許可される

    • -

      密閉型巻線抵抗器を発売

  • 1954昭和29
    • 1月

      反射面改良型替球式シールドビーム「エバーシャイン」を発売

    • 5月

      ホンダに売り込みを開始し、単発で自動車電球500個を受注

    • 12月

      等々力工場にセレン整流板用真空蒸着装置を設置

  • 1955昭和30
    • -

      セレン光電池の量産開発を開始

    光電分野への進出

     1950年代半ばには自動車用品と同じく光電池、露出計といった光電製品も大きく成長をとげた。当社はセレン整流板で蓄積してきた技術を生かし、1955(昭和30)年にセレン光電池の開発を開始。翌1956(昭和31)年には海外製品に勝る青色のセレン光電池を開発した。それが、露出計メーカーの知るところとなり、当社への引き合いが相次いだ。
     1959(昭和34)年にヤシカと共同で開発した露出計は、全自動露出計として業界の注目を集め、その後、カメラ業界にEE(Electric Eye)ブームを巻き起こした。当社の光電池使用製品は時代の先端を走るものであり、これらの製品は北野隆春社長が開発マネージャーを務め、社員と一緒になって製品化を進め、開発の苦労も喜びも分かち合ったのであった。

  • 1956昭和31
    • 4月

      ホーロー引き抵抗器のJIS表示が許可される

    • 7月

      資本金を4,000万円に増資

    • 9月

      ニュートラルパイロットランプを発売(ホンダ向け電装品第1号)

  • 1957昭和32
    • 4月

      完全密封式メタルバックシールドビームを発売

      「メタルバックシールドビーム」が当社の成長の礎を築く

       高度経済成長とともに、わが国の自動車産業は急速に発展していき、生産台数は大幅な伸びを示していた。この流れに乗るか否かで、会社の命運は左右された。そこで、社運をかけて開発に心血を注いだのが「オールグラスシールドビーム」に代わる新方式の二重ガス入り完全密封式「メタルバックシールドビーム」であった。開発は困難を極めたが、ついに成功させ、性能はオールグラスに劣らず価格は3割減を実現した。また、従来の常識を破るような角型、馬蹄型などの変形タイプも可能にしたことにより、当社独自の「メタルバックシールドビーム」は驚くべき勢いで市場に受け入れられ、当社が自動車産業の中で成長を続ける礎を築いたのであった。

      完全密封式メタルバックシールドビーム

    • 8月

      オートライターを発売

    • 11月

      ホンダ「ドリーム」「ベンリー」用電球発売

    「メタルバックシールドビーム」が当社の成長の礎を築く

     高度経済成長とともに、わが国の自動車産業は急速に発展していき、生産台数は大幅な伸びを示していた。この流れに乗るか否かで、会社の命運は左右された。そこで、社運をかけて開発に心血を注いだのが「オールグラスシールドビーム」に代わる新方式の二重ガス入り完全密封式「メタルバックシールドビーム」であった。開発は困難を極めたが、ついに成功させ、性能はオールグラスに劣らず価格は3割減を実現した。また、従来の常識を破るような角型、馬蹄型などの変形タイプも可能にしたことにより、当社独自の「メタルバックシールドビーム」は驚くべき勢いで市場に受け入れられ、当社が自動車産業の中で成長を続ける礎を築いたのであった。

    完全密封式メタルバックシールドビーム

  • 1958昭和33
    • 5月

      日本初の4灯式メタルバックシールドビームを発売

    • 6月

      株式の東京証券取引所市場店頭販売を開始

    • 9月

      完全密封式メタルバックシールドビームを発売

    • 街路灯用水銀灯および安定器を発売

    • 10月

      光電式写真用露出計を開発

  • 1959昭和34
    • 1月

      EEカメラ「ビューティーLM」に当社セレン光電池使用の露出計が採用

      露出計
      EEカメラ時代の先鞭をつけた「ビューティLM」

    • 2月

      完全密封二重ガス封入方式メタルバックシールドビームが完成

    • 4月

      新型8ミリ撮影機「ヤシカⅢ」に連動露出計が内蔵される

    • 6月

      ホンダ「スーパーカブ号」用のヘッドランプを受注

    • 7月

      資本金を1億2,000万円に増資

    • 8月

      日本初の画期的電話用信号器「トランジスタ型PBX」が完成

    露出計
    EEカメラ時代の先鞭をつけた「ビューティLM」

  • 1960昭和35
    • 3月

      浜松工場を開設

    • 12月

      秦野製作所を開設

    開設当初の秦野製作所

  • 1961昭和36
    • 5月

      『スタンレー新聞』を創刊

    • 7月

      資本金を5億5,000万円に増資

    • 10月

      東京証券取引所市場第二部に上場

  • 1962昭和37
    • 2月

      東京証券取引所市場第一部に上場